作家紹介
アーチスト写真

生命の輝きを一刀に込める

木や石に潜む、光を削りだす

彫刻家

岸野承

KISHINO Sho

禅の世界への誘い

 大学卒業後は美術鋳造の鋳物屋に就職した。理由は自分の創作にも役立つだろうと思ったからだ。 

「鋳物の仕事で技術を身につければ、自分の彫刻をやりながらでも食うには困らんだろうと思ったわけですよ。彫刻が売れるとは思わなかったですし、『からなし・そさえて』という会は経済とは一切結びつかない展覧会で、そこにずっとおりましたからね。そら、彫刻が金になるなんてぜったい思いませんよ。しようとも思わなかった。当時はね。でも、飯食わなあかんから、鋳物の仕事さえできりゃあいいやろと思ってたんですよ」
 ところが思惑は外れた。就職して10年近く経ったころ、仕事が徐々に減りはじめたのだ。月給制でボーナスもきちんと支払われていたのが、だんだん仕事もなくなり、そのうち見込み生産のような仕事をするようになって収入も減っていった。
 そんな状況がしばらく続いたある日、岸野は思い立って日給制の交渉に出る。
「金になるかならんかの仕事をずっとやっていても時間がもったいないから、それやったら自分の仕事をしたいと思って、日給月給にしてもらったんです。自分の作品を作りますって。
 いっつも夜7時くらいに仕事から帰ってきて、ぱぱっとご飯食べて、そこから仕事場に入って制作してたんですよ。福井さんが『人の倍は仕事せなあかん』『おんなじように生きてたら何もできん』って言われてたんでね。だから体もフラフラでしたけど、毎日仕事場に入って作品作りをしてました」
 せわしない日常は一変した。安定した収入と引き換えに、自由な時間を手に入れたのである。すでに家庭をもっていた岸野にとって収入の激減はイタかったが、それでも創作の時間が増えたことは願ってもいないことだった。
 
「そんなに時間があるんやったら、お寺行ったら?」
 あるとき弟の寛がそう言った。
「大徳寺で『欠伸会』いう勉強会があるんやって」
 寛は「土樂窯」で有名な伊賀焼の福森雅武氏の工房で修行を積んでおり、その頃はすでに独立していたのだが、そこからの情報だという。福森氏は父の友人で、幼いころから家族ぐるみの付き合いがあり、お嬢さんの福森道歩さんが大徳寺の龍光院で住み込み見習いをしていたということだった。
「それで、道歩さんの紹介でその勉強会に参加することになって、龍光院にお世話になるようになったんです」
 時間はたっぷりあった。勉強会に参加するうち、寺の手伝いも頼まれるようになり、時には泊まり込みで手伝うこともあった。
 やがて仕事のない岸野に、寺の什物の修復などの仕事の依頼が来るようになった。寺での体験は岸野の作風に大きな変化をもたらした。

(作品『堂中羅漢(法輪寺樫、岸野寛作陶台)』)

人の心に寄り添う作品を生む彫刻家、岸野承さん。古材や石のかたちを生かしながら、羅漢像や仏像、鳥や母子像などを削り出すためには、我を消して相手に合わせていく必要があるといいます。慈愛に満ちた作品が生まれる背景には、どんなストーリーがあるのでしょうか。

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