作家紹介
アーチスト写真

生命の輝きを一刀に込める

木や石に潜む、光を削りだす

彫刻家

岸野承

KISHINO Sho

モノ作りの原点と作家の原点

 水墨画家の父をもつ岸野は1972年、京都府相楽郡精華町で生まれ育った。5人きょうだいの4番目、長女を筆頭に男4人の三男、末の弟が陶芸家の寛である。物心ついたころから父、忠孝は水墨画家として教室を開いて生計を立てており、生活はきわめて質素だった。もともと忠孝は絵描きの禅僧小林雲道人の弟子。そのつてで山田無文老師の下で居士として3年間の修行も積んでいたという。慎ましい生活になるのは当然、子供たちにも贅沢はさせなかった。
「家族の誕生日には、手作りしたものをプレゼントする、というのが我が家の習わしでした。7人家族だから1日は自分がもらう、あとは年に6回手作りのものをプレゼントする。わたしは、たいてい木彫りのものです。小さいころから粘土をしたり、木を削ったりというのは普通だったんでね。川で拾ってきた流木で木彫りをすることもよくありました。自然にあるものを使って創作し、プレゼントする。それが普通だったから、今思えば、かなりモノづくりの英才教育を受けていたかもしれませんね。勉強に関しては、特にやれとも言われたことはないです」
 両親からプレゼントされた菊一の彫刻刀は今も使っているし、現在の流木の作品はそのころの体験がヒントになっている。どのような材料ならどんなモノが作れるのか、モノ作りに大切なことは生活の中で両親から学び、体で覚えていった。
「魚もヒレまで削りました。折れないように薄くし、鱗もひとつずつ、ぜんぶです。細長い流木で蛇も作ったことがありますよ。背や腹の鱗を1枚1枚、ていねいに彫るんです。掘り方は父から教わりました。父は小物を作るのが好きで、篆刻も彫っていました」    

 

 手作りのプレゼント交換は中学の途中まで続いたが、あるとき嫌になってやめた。それでも父親の背中を見て育ったからか、高校に進学すると自然に「大学は美大に行きたい」と思うようになった。
 高校3年の夏と冬、岸野は東京に住む父の友人の油絵画家、福井一氏の自宅に下宿させてもらいながら美術研究所の講習会に参加した。
「結局、1浪して愛知芸大に行きました。1浪してるときも福井さんにはお世話になり、芸大に入ったあと、彼が主催していたグループ展『からなし・そさえて』にも参加させてもらうようになりました。
 年に1回、4月から5月に青森の弘前で展覧会をするんです。みんなで合宿して、料理したり夜は酒を飲みながら夜通し議論するんですよ。大学1年のときからずっと行ってました。毎年行っては、泣かされてましたね(笑)。卒業して社会人になってもそのときだけは仕事を休んで行きました」
 岸野がジャコメッティの影響を受けたのはこのころだ。ジャコメッティに傾倒していた福井氏を囲んで議論する中で、しだいに岸野も惹かれていった。ジャコメッティの本をむさぼるように読み、その内容から彼の思考をつかみ、なぜあのような表現になるのかを理解しようとした。
「ジャコメッティは『見えるものを見えるとおりにつくる』と言って鼻の長い作品とか作ってますけど、こんな風に見えっこないやんって思うでしょ? あれは、実際、人間いうのはパッと見たときに全体を見てないということなんです。見てるつもりでも、細かく分析していくと見てない。それをジャコメッティは『鼻の先を見たときにはその付け根はサハラ砂漠のように広い』って表現しているんです。
 わたしもちょっと近いようなところがあって、わたしの場合は、たとえば移動しているときの瞬間的な場面というのは、その瞬間を切り取ったときに、後ろの足や頭は消えていくように見えなくなる。頭の欠けた作品があるんですけど、あれはそういう意味なんですよ。見えてないんです。人が歩いてる作品も、棒のように頭がなかったりする。それは、その瞬間を捉えたときに頭は見えてないってことです」
 ジャコメッティの意識をつかもうと、岸野はますます作品作りにのめり込んでいった。

(作品『鳥(流木松、富士山杉、柿、大徳寺銅板)』)

人の心に寄り添う作品を生む彫刻家、岸野承さん。古材や石のかたちを生かしながら、羅漢像や仏像、鳥や母子像などを削り出すためには、我を消して相手に合わせていく必要があるといいます。慈愛に満ちた作品が生まれる背景には、どんなストーリーがあるのでしょうか。

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