作家紹介

アーチスト写真

月に万斛の思いを

伝統工芸と現代美術の玄妙な邂逅

箔工芸作家

裕人 礫翔

Rakusho Hiroto

 40歳の時、西山裕人は、父から継いでいた箔工芸の事業を弟に譲り、箔工芸作家として生きていこうと決意する。裕人礫翔の誕生である。その後、礫翔は離婚し、3人の幼子を引き取ることになった。

 性も根も尽き果てた頃のある夜、月を眺めていると、ざわついた心が落ち着いた。その時の思いを胸に、彼は新たな境地を拓くべく研鑽を重ねていく。

 彼は絶体絶命のピンチをどのようにして切り抜け、箔工芸作家としての地歩を築いたのだろうか。

 

 

優しく包んでくれた、あの日の月

「月を見ているだけで、こんなに気持ちが落ち着くなんて……」

 夜空に浮かぶ月を眺めながら、西山裕人はしみじみ思った。まるで母親の懐に抱かれるような安らぎを覚え、それまでの絶望感が少しずつ溶解し、希望の光が自分の心に差し込んでくるのを感じていた。

 人は、何度か生まれ変わることがあるという。裕人が生まれ変わったのは、まさしく40歳という節目の時だった。

 それまで父から継いだ箔工芸業に専心し、多忙な日々を過ごしていた。昼間、上を見上げれば太陽と青空があり、夜になれば月や星が輝いているという当たり前のことも失念してしまうほどがむしゃらに仕事をしていた。

 しかし、時代とともに着物の需要は減り続け、高級帯を生産する西陣でさえ、その打撃から免れることはできなかった。ただ安ければいいという無慈悲な価格競争に巻き込まれ、柄絵箔業の将来を悲観した裕人は、会社の経営を弟に託し、箔工芸作家として生きていこうと決心した。

 それだけでも、相当無謀な挑戦と言わざるをえないが、その頃、別の問題がもちあがっていた。離婚に直面していたのだ。結局、妻と別れ、2歳、4歳、8歳の3人の幼子を引き取ることを決断した。収入のあてもなく、一日中手のかかる子供を育てなければいけないという境遇になってしまったのだ。

 身も心も疲れ切っていた。そんな時、ふと見上げると夜空に玄妙な月が浮かんでいた。

「あの時の感覚をなんと言えばいいのでしょう。絶望の淵にいた僕を優しく包んでくれたのです。あの時、月が癒してくれたからこそ、少しずつ活力を取り戻すことができました。今、月をモチーフにして作品づくりをしているのは、月への感謝の気持ちをずっともち続けたいからでもあるのです」

 その言葉通り、彼が表現する月には、万斛の思いが込められているようだ。

 その頃、彼は雅号を名乗り始める。それが、裕人礫翔だ。「礫」は石のようにどっしりと構えた状態。それが高く羽ばたくようにとの願いを込め、「翔」の字を加えた。ファーストネームが前に来ているのは、世界で勝負することも視野に入れてのことである。

 こうして、西山裕人は、40歳を機に生まれ変わり、裕人礫翔になった。

「当時はおむつを替えながらご飯をつくったり、着物を作っては営業に行ったりしていました。その合間に創作をしていたのですが、それは想像を絶する毎日でした」

 それから長い歳月が過ぎた。礫翔は煩悶しながらも一日一日生ききり、まだ誰もが足を踏み入れていない広野の入り口に立っている。どんな地平が拓けているのか、その一端を紹介したい。

 

箔工芸家への道

 

西陣での原点

 裕人礫翔は1962(昭和37)年、京都の西陣で生まれた。西陣とは、京都市上京区から北区にわたる一帯を指し、高級絹織物「西陣織」発祥の地として世に知られている。

 その地で、礫翔の父・西山治作は箔工芸を営み、市の伝統産業技術功労者にも認定されていた。では、西山治作が生業としていた箔工芸とはどのようなものだろうか。

 箔とは、展延性のある金、銀、プラチナ、真鍮などの金属を打展して厚さ約 0.0001ミリの薄い膜状にしたものをいう。箔を柿渋や漆をひいた和紙に貼り、細い線状に裁断したものを絹と合わせ、帯や着物の素材にする一連の作業が箔工芸である。その際、緻密な正確さはもちろん、依頼主の要望に沿った文様を作れるかどうかは、ひとえに箔工芸家の腕や感性にかかっている。

「もともとは中国から伝わってきた技術で、正倉院にも箔で作られた織物が納められています」

 つまり、箔工芸は奈良時代から継がれた、伝統ある技術なのである。

「物心つくと、父から『おまえは将来、家業を継ぐのだ』と言い聞かされていたので、自分も箔工芸家になるのだと信じて疑いませんでしたし、父の仕事の現場がそのまま僕の子供の頃の遊び場でもありました。ただ、僕が父の会社に入る前も後も、手取り足取り教えてもらったことはありません。他の伝統工芸もそうだと思いますが、この世界も『見て、盗め』が基本です。父はいずれ継がせる息子にあれこれ教えたいと思っていたと思いますが、あえてそうしなかったのは、やはり意味があってのことでしょう」

 むりやり教えるのではなく、自ら学びたいという意欲が膨らんでくるまで待つ。それは根気の要る指導法だが、じつに理に適っているともいえる。

 礫翔もその恩恵を受けた。父の背中を見ながら、やがて自分も父のように名人と言われるような仕事をしたいと思うようになった。

「それまで漠然と意識していた程度でしたが、将来の仕事としてはっきり意識し始めたのは、中学生になった頃です。当時、西陣は活気がありましたし、わが家にも多くの職人が通っていました。自分もやってみたいと思うのは当然のことです」

 特殊な技術を習得するうえで、最良ともいえる環境で育ったことにより、礫翔は基本を固めることができた。今、彼が手がけている仕事は、若い時分に培った技術があってのことだろう。

 もうひとつ、見逃せない要素がある。なぜ、礫翔は過剰なまでに月のやさしさに反応したのか。これはあくまでも推測だが、少年の頃、野山や寺の境内で遊び、感性を育んだことが影響しているのではないだろうか。

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