作家紹介
アーチスト写真

生命の輝きを一刀に込める

木や石に潜む、光を削りだす

彫刻家

岸野承

KISHINO Sho

空間を削る

 実際目にした彫刻は大小さまざま、造形も仏僧の他に鳥や母子像もあった。素材は主に木や石、ときに鉄も使う。
ごつごつと荒削りにむきだした木肌の面。幾度もなでさすられたであろう、つるりと磨きあげられたなめらかな木目。小さく身を呈す者もいれば、どしりと単坐する者もいる。しずしずと連なり歩くのは雲水らしい。
 形を与えられてはいるものの、どの作品も形を持たない心中の声を宿している。それが見る者によっては祈りであったり、慰めであったり、そしてあるときは問いただすようにも聞こえてくるのだ。
「わたしの作品は、見る人に感じてもらうことなんです。それも感じてもらえる人に感じてもらえればいい。ですから、見る人の力も要求すると思います」
 岸野がそう言うのには訳がある。先述した紹介文にあるジャコメッティの彫刻のスタイルと、岸野のそれには厳然とした相違があるということ。
「ジャコメッティは物質であるモノに意識を集中しますが、わたしの場合はモノじゃなしに、ない方の空間を意識するんです。空間を削り出すというんでしょうか。存在しないところに存在させていく、という感じです」
 そう聞いて、ふと禅寺にある「枯山水」が浮かんだ。
 白砂のうえに、あたかも水が流れているように波紋をつけ、大小さまざまな石を置いて山水を模した禅の庭。その前に座ればどこからともなく水の音が聞こえ、目を凝らせば水の流れが見えてくる。気のせいか、水の匂いもする。岩にぶつかり方向を変えながら渦をまいて流れゆく清涼な水脈が、しだいに眼前に広がっていくのである。
 岸野の創作スタイルは、あの枯山水に似ている。
「日本の文化というのは俳句でもなんでも、行為もふくめて見えてる部分は一部分であって、あとは感じたり読み取るというものがほとんどだと思います。俳句も、ほんの一瞬を切り取ったりするでしょう? わたしは彫刻でそれをやってるんです」
 芸術は必ずしも作家の意図するように鑑賞されるわけではない。どの分野であれ、鑑賞者は見たいよう聞きたいよう、好きなように作品を鑑賞する。なかにはそれを良しとしない作家もいるだろうが、手から離れた創作物は、もはや作家の思いとは関係なく歩き始める。にもかかわらず完成品に執着すれば、所有欲は増すばかりである。だが岸野は執着しない。
「わたしにとっては、出来上がったものよりも、それをしている行為がいちばん大事なんです。なにかを感じ取ってそこに向かっていく。向かってそれを行っている、その時が重要なんです」

 

 禅には「無分別」という考えがあるという。たとえば鳥が鳴いて飛び立っていく、犬猫が餌を食べる、その行為には「ああしよう」「こうしよう」という意識は働いていない。意識をとおすことなく何かを感じて無意識に行動する。これが無分別である。われわれ人間も空腹なら食べるし、眠くなれば横になる。その無分別の行為が岸野のいう「なにかを感じ取ってそこに向かっていく行為」、つまり感知して創作に向かうときだ。
 この無分別の世界に加え、人間には分別していくこともまた、同時に求められる。朝起きて顔を洗う、食事をする、掃除をする、仕事をする、勉強をする、休息をとるなど、意識して行う行為が分別である。
 意識して何かをしようする分別と、感じるまま無意識でする無分別。このふたつを同時に行っていくことが重要なことと見なされ、究極はそれらが一体化することを目指すようだ。
「わたしの場合、彫刻しているモノと一体になる、という感覚。そこが大事なんですよ。禅の世界では『無理会(むりえ)』という言葉があるんですが、それは「理会」を超越した世界、理性的判断の届かない次元、そこのところに向かって作品を作ろうとするのです。
 わたしにとって坐禅をしているのと同じなんですよ。
 無理会に向かって生きることというのは、寶林禅寺の西村古珠和尚様から教えて頂いたことなのです。和尚様は2年前にご病気で他界されたのですが、最期までこの無理会に向かって、坐禅しながら亡くなられました。本当に格好のいい方でしたね」
 仏僧、無分別、無理会、坐禅。岸野はいったい何を生み出そうというのか。

(作品『坐(翌檜、京都京北の神社材)』)

人の心に寄り添う作品を生む彫刻家、岸野承さん。古材や石のかたちを生かしながら、羅漢像や仏像、鳥や母子像などを削り出すためには、我を消して相手に合わせていく必要があるといいます。慈愛に満ちた作品が生まれる背景には、どんなストーリーがあるのでしょうか。

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