作家紹介
アーチスト写真

初源の空に響く妙音を描く

玄なる空間を象であらわす

画家

松原賢

MATSUBARA Ken

林屋晴三との邂逅、音の流転

「賢さん、ここに富士山、描いてくれないかな」
 そう言って、松原に富嶽図を描かせたのは、新宿『柿傳』の「茶の湯同好会」で亭主をしていた陶磁器研究家で高名な林屋晴三であった。その頃、松原は茶の湯に魅了されており、とりわけ林屋翁の人品に惹かれていた。縁あって林屋の茶席に招かれたのが2010年。以降、林屋翁との親交が深まるにつれ茶席に合わせた作品の依頼も増えていった。

 

 水音をテーマにした作品が床を飾り、「富士山を描いてくれ」と言われたその時も、残月床には『環一滴』のオブジェと水盤が置かれ、天井に仕組まれた管をつたって落ちるしずくが妙味な景色を作っていた。
「富士山はあんまり描きたい素材じゃなかったんですよ。でも、尊敬する先生からの依頼ですからね(笑)」
 思いとは裏腹に、富嶽図は松原の好機となった。取材のためヘリコプターで富士山を上空から臨み、その圧巻な大沢崩れに「大自然の景勝は水が作っている」と実感した松原は、さまざまな富士の景色を描いては数寄者たちを驚かせた。
 山や渓谷、海や川を富嶽図の画法によって描き、そこから心象を描いた『景』が誕生。まもなく深淵な音を響かせる『水景』も生まれ、この「景」シリーズによって松原はふたたび新たな局面を迎える。
 
 2015年、京都・神護寺での茶会の床掛けに、席主をつとめる林屋翁から富嶽図の依頼を受け、松原は巾2間の壮大な富士の大作を仕上げた。いきおいそれに合わせた襖絵も描くことになり、神護寺との関わりも深い〝空海〟がお題に上る。松原は、急ぎ高知・室戸岬の御厨人窟へ向かった。そこで空海が見たであろう空と海、日輪と月輪の自然の循環、超常宇宙の理を松原はしみじみと味わい、満を持して制作に挑む。
 そして取材からおよそ10ヶ月後、『日月空海図』は完成した。
が、誰よりも完成を楽しみにしていた依頼主の林屋晴三は、神護寺書院に並んだ富嶽図と空海図の景色を見ることもなく、すでに不在の人となっていた。
 行き場をなくした『日月空海図』はその後、銀座「和光」ホールで初披露となり、2019年10月、Ippodo New York67stのこけら落としのために海を渡った。現在はフィラデルフィア美術館に収蔵され、多くの人に空海の風景を見せている。


 しかし松原には、空海図以前に空海の見た風景を心象に見ていたのではないかと思わせる作品がある。1990年、箱根仙石原の長安寺内陣の障壁に描いた『日月図』がそれである。その後、小品の日月図も生まれていることを思えば、室戸岬での体験は、松原の裡に広がった心象風景の裏付けに思えてならない。先の、あの『カオス』の左隻端に見える日輪が、そのことをものがたっている。
 つまり、松原はすでに空海と同じ風景を味わっていたのではないだろうか。おそらく、あの神秘な妙音に浸った本堂の空間で。

 

 大作『日月空海図』を描いた後、松原は富嶽図や空海図以外でも新たな一面をあらわした。金屏風に描いた『藤花図』は、円山応挙を思わせる筆さばきで、幹と蔓は龍のように身をうねらせ、天から注ぐ藤の花の中を悠々と泳ぐ。この藤花図も依頼によるものだが、近年には見られなかった、松原本来の筆技を全面に打ち出した作品である。
 
 混沌によって音の世界に導かれ、そこから森羅万象の理に触れた松原。無から有への生々流転はこの先もつづく。その頭上には、2つの巨星が煌々とまたたいていることだろう。

(作品上:『環一滴』、中 :神護寺『富士山』・『日月空海図』、『藤花屏風(二曲一双)』)

 

 

独学で身につけた画才で空間世界を描く画家、松原賢さん。あるできごとから自然の初源に触れ、空間に潜む「音」の抽象をキャッチ。そこから生命誕生の原点に立ち返るがごとく、見えないものを見える象であらわそうと新たな表現に挑みつづけます。使う絵具も、土や砂、墨などの天然素材で手作りしたものばかり。絵という表現方法でオリジナルの人生を生きる、異才の人生ストーリーをご覧ください。

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