作家紹介
アーチスト写真

初源の空に響く妙音を描く

玄なる空間を象であらわす

画家

松原賢

MATSUBARA Ken

井上三綱との邂逅、そして永遠の別れ

 画家になるべく歩き始めた松原であったが、技術の習得はアカデミックなものに頼らない我流の模写であった。クールベやアングルなどの写実画を写しとりながら、油絵の具の扱い方、特質の習得に力を入れた。嫌いなデッサンも勉強と思いやった。憧れはダリやエルンストのようなシュールレアリズム。初出品となった独立美術展では、油彩でシュールレアリズムを描いてみせた。納得のいく出来栄えであった。が、どうもしっくりこない。
「シュールレアリズムのちゃんとしたバックボーンが自分の中にあったわけではないんですよね。だから長続きしなくて。なんか借り物みたいで」
 

 いざ覚悟を決めて歩き始めたものの、ゆく道は暗く探る手に触れるものはない。方向を見失い身動きも取れず「もはやこれまで」と力尽きようとしていたその時、友人が一冊の画集をもって現れた。画家・井上三綱の画集であった。
 井上三綱は西欧と日本を融合させた独特の絵を描く画家として知られ、イサム・ノグチやロバート・オッペンハイマー、ベン・シャーンをも唸らせた実力の持ち主。神官の家に生まれたというだけあって古事や伝統文化などにも造詣が深く、禅僧の謦咳にも接していたため、その道にも明るかった。
 藁をもつかむ思いで画集を開いた松原は、そこに求めてやまなかった一条の光を見とめたのである。
「作品もよかったのですが、その中の文章がまたよくて。こういう見方をするとこういう絵が描けるんだということが、初めてわかった。いわゆる、ものの見方ですね。その画集は僕の一生涯の教科書です」
 眼から鱗が落ちるとはこのことか。射し込んだ光に弾かれるように、松原は鱗の落ちた眼を見開いて先を急いだ。
 
 その後の成りゆきは、思いのほか滑らかだった。画集を届けてくれた友人の計らいで三綱本人に会う機会を得、二人で話す時間まで与えられた。願ってもいないチャンスに気持ちははやり、松原は堰を切ったように思いの丈を三綱にぶつけた。ようやく話し終えて落ち着きを取りもどしたころ、終始にこやかに聞いていた三綱が口を開いた。
「今あなたが言ったことは、全部直感ですね。それを信じればいいですよ」
 思わず耳を疑った。美術教育も受けたこともなければ、展覧会の出品作には批判を浴びることの多かった自分に、かつて今までそんなことを言ってくれた人は一人もいなかった。
「直感を信じなさい。既成概念に振り回されちゃいけない」
 しだいに力が抜けていくのがわかった。この人は自分を肯定してくれている。そう思うと、これまでの努力が報われたような気がした。
 助けを求めて差し伸べた手をやわらかく握り、立ち上がらせてくれた井上三綱。松原の腹は決まった。かくして三綱の住む小田原長興山中腹のアトリエ通いは始まったのである。
 
 時は穏やかに、しかし刺激を伴って流れていった。自宅のある茅ヶ崎から三綱のアトリエまで、車で片道約1時間、松原は嬉々として通い詰めた。作品の整理、修復の手伝い、母屋でのひととき、思い出の地への随行など、三綱の香を焚き染めるように付き従った。その折々にポツリとこぼれる言葉も、ひたひたと身に染み渡ってゆく。
 のちに松原は、この時のことをこう振り返っている。
 

 ――師との邂逅は、カラカラに乾いた砂漠で、滾々と湧き出る泉に遭遇したようなことでした。――

 

 そんな中で聞き知ったのが、あの「だんまり又平」である。外題は違うものの、三綱もまた、幼少の頃に村芝居で「どもり又平」を観て心を震わせていた一人であった。絵を描きはじめた理由も、これだという。松原は思わぬところで師と通じていたことを知り、嬉しさと縁の不思議を思った。
 初めて師と仰ぐ人物に出会った悦びは、自然、画風にもあらわれた。模写の習いか、やはり師のそれに似通ってくる。スタイルもモチーフも、まるで三綱が乗り移ったかのようであった。三綱もそれを否とも言わず、あたたかく見守った。あの「不健康さ」を指摘した作品を除いては。
「三綱はその絵を見て『原爆みたいだ』と言ったんです。それで僕が『原爆のパワーですか、それとも、不健康さですか』と訊いたら、両方だと。『パワーはいい。だけど、不健康さが気になる。なんでもない健康にならなければ、真の感動は得られない』と。それが僕の一つの課題になったわけです」
 その後のことは先述したとおりである。松原に大きな課題を遺して、井上三綱はこの世を去った。享年、82歳。松原にとってこのうえない、忘れがたき至福の時間は、6年の歳月をもって幕を閉じたのである。

(作品上『模写・クールベ/ハンモック1』、中『母子』、下『水景』)

 

 

 

 

 

独学で身につけた画才で空間世界を描く画家、松原賢さん。あるできごとから自然の初源に触れ、空間に潜む「音」の抽象をキャッチ。そこから生命誕生の原点に立ち返るがごとく、見えないものを見える象であらわそうと新たな表現に挑みつづけます。使う絵具も、土や砂、墨などの天然素材で手作りしたものばかり。絵という表現方法でオリジナルの人生を生きる、異才の人生ストーリーをご覧ください。

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