作家紹介
アーチスト写真

初源の空に響く妙音を描く

玄なる空間を象であらわす

画家

松原賢

MATSUBARA Ken

 

模写で身につけた絵の才

 

 

 松原賢は美術教育を受けていない。強いてあげれば、古の画工たちが教師である。26歳で井上三綱に出会うまで、松原が手本としたのは先人たちが遺した作品だった。
 幼い頃から気に入った絵と見れば模写をした。子供の頃しばらく身を寄せていた母方の親戚、福井県大野市の寺で、天井画や襖絵、掛け物など秀逸な作品を目にする機会も多く、手習いの材料には事欠かなかった。くる日もくる日も模写をしていたからか、子供ながらに腕には自信があった。当然、眼識もできあがっていた。
 あるとき、寺の方丈で、住職が知人に描かせた衝立の絵を見て「俺の方がうまい」と豪語したこともあったらしい。
 その模写である。「学ぶ」を「真似ぶ」というように、書なら臨書、絵なら模写、匠の技はもちろん、いかなることも成長や上達の最上の助けになるのは良質なものの模写であり、真似であろう。洋の東西を問わず、その道の達者たちの多くは先人の技を真似て腕を磨いていったものだ。
 松原もまた、そこに並ぶ。幼少の、まだ寺で世話になる前のこと。戦後の国土復興が急速に行われていた当時、富山県はダム建設が活発で、松原の住む上市町もその例にもれなかった。小さな田舎町は出稼ぎの人たちで溢れかえり、映画館は二軒もできた。
 娯楽の少ない時代に映画館は幼い子供にも物めずらしい。恐いもの知らずのケン坊は、幼稚舎を休んでは大人の目を盗んでちょろちょろと映画館にもぐり込んだ。
「最初は知らない大人の後ろにこっそりついてタダで入っていたんです。そのうちモギリのおばちゃんにバレて、『コラッ、ケン坊!』って怒られてね(笑)。近所の人だから顔なじみだったもんで、それからは子供ながらに悪知恵を働かせ、可愛がってくれた、煎餅屋のおばちゃんからもらった割れ煎餅や芋なんかをもって顔パスを獲得しました(笑)」
 まるで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の主人公の、少年トトそっくりである。違うところはトトが映写そのものに興味をもったのに対し、松原は映画に登場した絵師の姿に釘付けになった。
 絵師の名は「だんまり又平」と言った。伝説の絵師・岩佐又兵衛をモデルに、領主お抱え絵師集団狩野派と、土佐派ではあるが吃音が理由で我流にならざるを得なかった又平が、土佐派代表として領主から降った「龍の画を揮毫せよ」という勅令の下、その腕を競い合うというストーリーである。
 スクリーンの中で、画の他はまったく世事にうとい善良な又平が見たこともない龍を描くのに孤軍奮闘する姿を、幼い松原は息をするのも忘れて見入っていた。
「又平は妻と一緒に願掛けに滝行に行くわけですよ。どうか龍を見せてくださいと。でも、満願になっても龍はあらわれない。これはもう逃げるしかないとなったときに、突如、滝壺から龍があらわれる。つまり、又平は心眼で昇天する龍を見たんです」
 決戦当日、又平と狩野派の絵師は群衆が固唾をのんで見守るなか、各々100畳はあろうかという白い布に龍を描き始める。スクリーンには両者迫真の龍がドンと映し出され、幼い松原も、これには度肝を抜いた。以来、白い紙と見れば、ひたすら龍ばかり描いていたという。幼時の体験は生涯ついてまわる。かように松原の模写の才はできあがったのである。

 

 

 縁というのは不思議なもので、見えない糸をたぐりよせるように、人と人や人とモノとを結びつける。その文字が織物から成ったというだけあって、よって立つ縦糸をぴんと張れば、自然、それに適った緯糸が集まるように仕組まれているのだろうか。
松原が又平との縁を結んだように、井上三綱もまた、別のところで又平との縁を結んでいたのだが、松原と三綱との縁が結ばれるのは、まだまだ先のことである。
 
 松原は、その後もひたすら模写を続けた。しかし画家を志したのは24歳、すでに結婚し、ちょうど二人目の男子の親になったばかりの頃だった。
 17歳で丁稚小僧となり、19歳で商業美術の絵描き職人として独立してからは、一人親方で店舗の看板や自動車のボディーサイン、撮影用の背景画、映画の美術などを請負い生計を立てていた。一家の大黒柱として、そのまま絵描き職人で生きる道もあった。だが一人の人間として、男として、人生を全うするには、やっておかねば後悔することも胸の裡にあることはわかっていた。

 ――自分の人生を子供のせいにはしたくない。
 松原は弁明の余地を断ち、かねてより思い描いていた画家で立つことを腹に据え、片方には画家の、もう片方には絵描き職人の、二足の草鞋を履いて歩きだした。
 ようやく画家に軸足が定まったのは20年後の1992年。富山近代美術館の企画展「富山の美術」に出品した作品が銀座の画廊主の目に止まり、晴れてプロデビューを果たしたのである。
 20年という歳月を二足の草鞋で歩くのは容易ではない。しかし松原は歩き通した。歩かせたのは、おそらく「井上三綱」その人であっただろうと思われる。
 すこし時間を巻きもどして、松原にとって最も大きく、はてしなく遠いこの巨星との邂逅を記しておこう。

(作品上『白藤』、中『景』、下『牛群像』)

 

独学で身につけた画才で空間世界を描く画家、松原賢さん。あるできごとから自然の初源に触れ、空間に潜む「音」の抽象をキャッチ。そこから生命誕生の原点に立ち返るがごとく、見えないものを見える象であらわそうと新たな表現に挑みつづけます。使う絵具も、土や砂、墨などの天然素材で手作りしたものばかり。絵という表現方法でオリジナルの人生を生きる、異才の人生ストーリーをご覧ください。

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