作家紹介

アーチスト写真

引き算の美学

西洋画と訣別して自分らしさを確立する

日本画家

那波多目 功一

Nabatame Kohichi

 

月輪

 

「空気を描きなさい。 目に見えないものを…」

 

見えないものを描くために自分を磨く

 師匠の松尾敏男に教えてもらったことは何か。

「技術的なことではなく、絵に対する姿勢や考え方を教えていただきました。とにかく目に見えないものを描けるようになりなさい。空気や音、香り、生命力や生の衰え、はかなさ、無常観…、見えないものを描くためにはまず人格を磨く必要がありますよ、と。はじめは自分の人格とそれらにどのような関係があるのかわかりませんでしたが、何度も何度もお話を聞くうち、こういうことを言っているのかなと感覚でとらえられるようになりました」

 那波多目の画家としてのコースは、けっしてエリートのそれとは異なる。藝大卒の人たちとは基礎的な修練の絶対量が違う。絵の道に入ってからも、50歳を過ぎるまで絵が主になることはなかった。あくまでも事業の傍ら、年に一度、院展など大きな展覧会に出品するという父との約束を果たすため、やむなく描き続けてきた。しかも、日本画家でありながら、最初の30年間は西洋画もどきを描き続けた。前述のように、自分らしさを確立したいと開眼したのは50歳を間近にしてである。

 常識的に考えれば、遠回りにも感じるが、果たしてどうなのだろうか。

「そんなことはないですね。特にブラックの黒は今の私の画風に生きています。西洋画は色に対するこだわりが日本の比じゃないです。日本の岩絵の具ではけっして表せない色が西洋にはあります。ただ、絵の品格や装飾性は日本画の方に軍配が上がると思いますし、見えないものを描くにも日本画の方が適していると思います」

 たしかにそうかもしれない。上に掲載の『月輪』は、砂浜と朧な月があるだけ。大きなスペースの大半は月にぼんやり照らされた夜空と風紋が残る砂だけ。たったこれだけのモチーフでありながら、その背景には短歌や俳句のごとき圧倒的な情報や想念が湛えている。特攻隊として散っていった近所の青年の無念さまで滲み出ているような気がする。それと同じ表現力を油彩で試みても、果たしてどこまで可能だろうか。

 

「自然の力を見なさい」

 

自然から引き算を学ぶ

 師匠に忠告されるまで、那波多目は頭で絵を描いていた。

「実際に見たものではなく、いきあたりばったり。他の絵を見て、ちょっといいなと思ったらそれを取り入れたり…」

 師匠に「いろいろなものを組み合わせるのが造形じゃないんですか」と反論したこともある。

 その時松尾は悠然と答えた。「自然の力を見なさい」。そして、その言葉も、前述の「自分らしい絵を描きなさい」と同じように、那波多目の迷いをばっさりと両断した。

 それからである、写実の大切さに気づいたのは。

 なるほど自然の動きや造形をつぶさに見れば、驚嘆することばかりであった。高校2年生の時、松山を見て一心に描いた時のように写生に専念した。自然が創り出す形に見とれれば見とれるほど、そのものを描きたくなった。もう、あれもこれもと考える必要がなくなった。描きたいものは自分の目の前にある。あとはいかにしてそれを描ききるか。

「自分が本当に描きたいものを描くために、余分なものはどんどん削ぎ落とすことにしました」

 日本の伝統芸術には、過剰な装飾を排して本質に迫る「引き算の美学」が通底しているが、那波多目の絵もそういう方向に傾いていった。「いかに描くか」は「いかに消すか」に通ずるとわかったのだ。

「形だけでなく、色の使い方も変わってきましたね。それまではアイデアにまかせてさまざまな色を使っていましたが、白を生かすために黒を使うというような試みを始めたのもその頃です」

 それを描きたいからそれを描く、という足し算ではなく、それを描きたいから他のものを描く、あるいは他のものを消すという「引き算」の手法は日本人の十八番だ。

 自分の描き方に迷いがなくなり、腰を据えて描いた『薄れ日』が初の大観賞を射止めた。

 その時、松尾にこう言われた。「もうやめられませんよ。責任のある賞をとったのですから」。毎年のように絵をやめたいと言っていた弟子に対して、そろそろ覚悟を決めなさい、と言ったのであった。 

 

寂

 

生と死を見つめて、その先を

 

自分は生きている

 那波多目の作品には生と死が同居している。生命賛歌を謳う一方、寂寞とした死の香りがそこはかとなく漂う。西洋画の影響を受けている頃からそうだった。その当時はあけっぴろげで雄弁な死生観だったが、自分のスタイルを獲得してからのそれは、静謐で訥々としている。

「特に40代になってから生と死を意識するようになりました。実際に凄惨な死の現場にも立ち会いました。池袋駅のホームに立っていた時のことです。女の人が叫び声をあげているので何事かあったのかなと思いましたら、人が線路の上で横になっていたんです。電車は急ブレーキをかけましたが、間に合わず、その人を轢いてしまいました。その時の骨の砕ける音もまだ耳の底に残っています。その頃からですね、ああ自分は生きているんだと思い始めたのは」

 生きていることは当たり前のことではない。やがて誰にも死は訪れる。その冷厳な真実に気づかされた那波多目は、厳粛な死生観を画布に表し始める。

 重量感のある花房を誇らしげにつける牡丹の下に目をやると、地面の上には命尽きて散った花びらが屍のように累々とある。まさしく生命の謳歌と苛酷な死の対比である。これこそ日本人の誰もが内面にもつ無常観ではないか。那波多目は絵によって、盛者必衰の理を表した。

 だからこそ生がいとおしい。生きているだけで、こんなにありがたいことはないと感じられる。那波多目の牡丹を見て、そういう気持ちになれるのは、那波多目がそういう気持ちで描いているからである。

「花の姿を借りて自分自身を描いているのです。寂しさ、侘び、無常観…そういうものを描こうと思って描いているのです」

 自分がいつかは死ぬといつも思っていたら、やがて気が滅入ってしまうかもしれない。しかし、そういうことをまったく意識しないで日々を過ごしていくことは、はたしていいことなのだろうか。どうして自分はこの世に生を受けたのか、何をするためにこうして毎日生きているのか、そういうことを考えながら、那波多目は今日も絵筆を持つ。

 日本画家として院展に落選し続ける父の姿を見て発奮し、高校2年の時、院展初出品にして初入選という快挙を果たした那波多目功一は、現在の日本画壇において押しも押されもせぬ第一人者として活躍している。

 しかし、現在の画風に至るまでは紆余曲折があった。53歳まで会社経営の傍ら、画業を続けたという異色の経歴の持ち主でもある。しかも、はじめの20年は西洋画もどきを描いていた。

「牡丹を描かせたら右に出る者はいない」と言われる那波多目功一の「引き算の美学」に迫る。

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