作家紹介

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ガラスで表現する〝柔らかさ〟

本場ヴェネチアで開花したみずみずしい感性

ガラス作家

植木寛子

Ueki Hiroko

 

ルーマニアからイタリアへ

 ルーマニアでガラスに目覚めた植木は、無我夢中でガレの技術を学び、制作に没頭した。やがて、仕上げた作品を手に日本に帰国し、発表する。

 そのとき、多くの人からもらったコメントに植木は愕然とする。

「ガレ風だね」

 当然といえば当然だろう。ガレに憧れてルーマニアへ飛び、消滅していたものと思っていたガレの技術に出会い、自分のものとすべく、ひたすら制作を続けた。仕上がった作品がガレ風であっても、なんら不思議ではないし、人によって制作の第一段階としては好意的に受け止めるケースも多いにちがいない。

 しかし、植木はショックを受けた。ガレに憧れていたが、ガレに似ていると言われるのはいやだった。

 2000年、植木が初めて制作した試作品が作品図録に掲載されている。オレンジ色をベースにし、蝶をモチーフとしたその花瓶は、たしかにガレ風だった。ほかに植物や風景をあしらった作品も作っているが、やはりガレ風である。

 植木は、無性に自分の作品を作りたくなった。ほかの誰の作風でもない、まさしく自分だけの作風を。

 ガラスアートに限らず、自分の作風、つまり、オリジナルを獲得するには長い年月を必要とする。

 だが、植木はそう思わなかった。臆することがないうえに、負けん気が強かったのだ。

〝自分の油絵の世界をガラスで表現したい〟

 そう強く願うようになった。

 美大時代、植木が好んで描いていたのは抽象絵画だった。先入観や常識にとらわれない、形も色彩も自由な想念の世界。それを絵に表現していたのだが、ガラスもその作風で試みたかった。

 しかし、植木が書いたアイデアデッサンをルーマニアの工房で働いている職人たちに見せても、返ってくる答えは「ぜったい無理」だった。ルーマニアの職人たちは、それまでの伝統を覆すような作品に挑もうという気概はまったくなかったし、そもそも被せガラスの手法では、おのずと造形に限界があったのだ。

「そのとき、ほかの国でガラスが作れないかしらと思いました。世界の国でガラスを作りたいと。世界を回って、いいガラス職人と出会いたいと強く願ったのです。まっさきに心に浮かんだのが、イタリアのヴェネチアでした。それまでに観光で訪れていたことがあったし、ガラスの伝統があることも知っていましたから」

 そのようにして、植木はヴェネチアの地を踏むことになる。そこで、ある職人と運命的な出会いをするとは想像だにせず。

 

情熱、岩をも動かす

 ヴェネチアン・ガラスの歴史は古い。そして、長い間、ヴェネチアン・ガラスの中心的役割を果たしてきたのが、ムラーノ島。小さな島に優れたガラス職人が集まり、多くの工房が軒を連ねている。

 なぜ、ムラーノ島がそのようになったのか。

 1291年、ヴェネツィア共和国は、ヴェネチアン・ガラスの技術が原材料の豊富な国々に流れることを恐れ、すべてのガラス職人をムラーノ島へ強制移住させた。そして、島から逃げる者は厳罰に処し、反対に腕を上げた者は手厚く保護した。この隔離政策には、火事の類焼を防ぐという目的もあった。高熱を用いて制作をするので、火事が発生しやすいという事情があったのだ。

 2001年、ヴェネチアの地を踏んだ植木は、自身のアイデアデッサンを何枚も携えて、いくつもの工房を訪ねた。スケッチブックにはハイヒールを履いた女性の足や斬新な装飾をほどこした絵が描かれていた。

「この絵のアイデアをガラスで作りたい」

 そう言って、歴史のある工房を訪ね回った。しかし、どこへ行っても、「ガラスでこんな形を作れるはずがないだろう!」と追い返された。

 それまでの伝統的なヴェネチアン・ガラスは大半がテーブル・ウェア、せいぜい脚や取っ手に装飾的な遊びがある程度のものばかりだったのだ。

 それならと、植木はムラーノ島で〝スーパー・マエストロ〟と崇められているピノ・シニョレットの工房を訪ね、デッサンを見せながらつたないイタリア語でこう言った。

「いろいろな工房を訪ねたが、どこへ行ってもできないと断られた。これをガラスで形にできるのはあなたしかいませんよね」

 いきなり訪ねてきた20代前半の女性はヴェネチアとは縁もゆかりもない日本人。しかもガラス作家としては駆け出しである。

 ピノはこう答えた。

「それはそうだろう。ほかの工房にはファンタジーがないからな」

 プライドを刺激された彼は、「できない」と言えなかったのだ。

 それが起点となり、植木の作風は大きく変わることになる。

 

植木寛子の発想の原点

 植木のガラス作品は華やかで奇想天外なイメージがあるが、インスピレーションの源は日常生活の中にあるという。

「フルーツや植物、女性の体など、私が表現してみたいと思うモチーフは、ほとんどが日常にありふれたものです。ヴェネチアでの創作の原点は靴シリーズですが、それも単に靴が好きだったからです」

 ファッションにも鋭敏な感性をもつ植木は、大の靴好きである。いろいろと買い集めては玄関に並べ、眺めている。

「ムラーノの工房を回るとき、ありきたりの作品ではつまらない、なにかインパクトの強いアイデアがないものかと思案していたのですが、あるとき、ふとシンデレラの靴を作ったらどうかなとインスピレーションが湧いてきたのです。それまでにも吹きガラスの手法でクリスマスのブーツは作られていましたが、ヒールの高い女性の靴はありませんでした。そもそも誰もそんな形を吹きガラスで作ろうなどとは思わなかったのでしょう。そこで私は女性の美しい足、ハイヒールとさまざまな装飾というアイデアを何枚もデッサンしました。しかも、単なるオブジェではなく、花器として使えるものにしたかったのです」

 植木は多くの工房で門前払いをくったが、ムラーノで多くの職人たちから崇敬を集めるピノ・シニョレットというスーパー・マエストロを説き伏せ、ともに靴シリーズを具現するための闘いに挑むことになった。

「ピノは10歳からガラス職人として働いてきた熟練の職人。しかも、単なるガラス職人ではなく、立体のとらえ方など、まさしくアーティストそのものです。父親も画家でしたし。イタリアではガラス職人はアーティストではなく、『汗仕事をしている人』と見下されがちですが、ピノは別格でした。独学でガラス技術の最高峰を修得したのです」

 その後、植木とピノのコンビは、さまざまな作品に挑戦し、ヴェネチアン・ガラスの概念を覆すような作品を数多く発表している。

 2011年9月に開催されたサントリー美術館の『あこがれのヴェネチアンガラス』展においても、植木は現代の日本人作家の一人として6点の作品を出品している(最年少最多出品)。ヴェネチアン・ガラスの変遷をたどる同展の試みは、最終コーナーで鑑賞者の度肝をぬいた。靴や女性の肉体美など、造形の面白さにくわえ、艶やかな色彩は、植木がガラスアートの変革者であることを存分に知らしめることとなった。

 なにがそれを可能にしたのか。先入観や凝り固まった常識にとらわれない柔軟な感性と臆することのない積極的な行動力が、新しい世界を切り開いたといってまちがいはないだろう。伝統は守られるものであり、変革されるものでもあるのだ。

短大を卒業後、単身渡欧し、やがてヴェネチアを拠点に制作を始めたガラス作家・植木寛子さん。「女性的なものが好き」という言葉どおり、ハイヒール、女神、クラゲなど、彼女の生み出す造形と色彩は妖しいほどに女性的である。

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