コラム

零れ桜

2020年4月12日

 はらはらと舞い散る桜。零れ桜(こぼれざくら)です。日本人にとって、桜はもののあわれを誘う花。諸行無常の世界を瞬時に演じ見せてくれているようで、良寛さんの辞世の句が思い出されます。

 

―― 散る桜 残る桜も 散る桜

 

 咲いては散り、散ってはまた咲く桜花。今を盛りに咲く花も、やがては零れて地に還ってゆく。自然の循環は、ひとときとして休むことはありません。零れ桜の前に、梅も零れてゆきました。

 作家、隆慶一郎氏の『影武者徳川家康』の最後に、みごとな零れ桜のシーンがあります。

 

―― ここに運ばれた時、五分咲きだった花が、八分まで開いている。やがて満開になり、散ってゆくだろう。今も二方を開け放したこの部屋で、かすかな風に花びらが舞っている。

 ……また花びらがはらりと盃に浮いた。お梶がじっとその花びらを見ながら、呟くように云った。

「倖せでしたわ」

 ……風がやわらかく吹き、そくばくの花が散った。

 

 家康の影武者、世良田二郎三郎が、15年の長きにわたって関ヶ原の合戦で命を落とした家康に成り代わり活躍した後、病に侵され命が尽きようとしている場面です。心を許した5人の仲間との今生最期の饗宴でした。寝処に運ばれた桜の木の枝から零れおちる桜に、一同は常世のならわしを見ていたのかもしれません。

 

 散る桜、残る桜も散る桜。満開のときが美しければ美しいほど、はかなく散ってゆく姿は胸をうちます。

 しかしまた、こぼれた花片はふたたび足下に咲き誇り、人を魅了してやまないのです。

(200412 第70回)

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